「心を抉る映画」 ~続~

前回からの続きです。

 

「流浪の月」こちらの映画も深く重い映画でした。

 

雨の日の公園で出会った「文(ふみ)」と「更紗(さらさ)」。19歳の青年が「家に帰りたくない」と言う9歳の「更紗」を家に連れて帰る。そこから二人だけの穏やかな暮らしが始まるが、当然「誘拐事件」として扱われ、二人の暮らしも二ヶ月で終わりを告げる。

 

※ここからは「ネタバレ」を含みますので、ご注意下さい↓↓

 

 

そんな二人が15年後、偶然に再会する。
お互いに「恋人」がいる状況の中、更紗は文が営む喫茶店に通う様になる。

 

「文」と「更紗」。
二人は15年前の「加害者」と「被害者」というカテゴリーに分けられ、「ロリコン男」と「かわいそうな子」という目で見られていた。

 

ステレオタイプなレッテルを貼る世間は、二人に優しいようで冷たく、そして厳しい。そんな集団意識の怖さ。どんな出来事にも「真実」は人の数だけ存在するというのに、誰もそれを「想像」しようとしない。社会という集団の中では、どんな「真実」も法律の元に裁かれ差別されていく。

 

あの雨の日に「逃げ場所」を提供してくれた文は、更紗にとって救世主だったろう。この映画で考えさせられたのは「表面的な出来事だけで人を判断しない」「別の真実を想像してみる」という事。私がこの映画の「世間」という登場人物であれば、間違いなく彼らをそういう「色メガネ」で見ていただろう。それが恐ろしくもあった。

 

私たちはTVやニュースでこういう事件を知り、その犯人像を知り、被害者を知る。
メディアの情報に「操作」され「誘導」されている、という事を常に念頭に置いておかなければ、いとも簡単に思考を乗っ取られてしまう。

 

その事件の「表層」だけを見て「加害者」と「被害者」を「善・悪」に置き換えてしまい、感情論だけで彼らを判断してしまうという癖を持っている。「人間」とはそういう思考に流される生き物であり、それは一つの「洗脳」だ。それはとても「恐ろしい」事だと私は思った。

 

文と更紗は、互いに深い傷を抱えて生きてきた。
「男性機能の成長が止まる」という病を抱えた文と、叔母の家でその息子から性的嫌がらせを受けていた更紗。

 

それは誰にも言えない・・・或いは「知られたくない」悩みだった。

 

誰にも「人に知られたくない自分」というのを持っていると思う。「理解してもらいたい」というより、そんな自分を知られる事で「嫌われる」という恐怖感の方が強い。

 

この映画で表現されているのは、あらゆる角度から捉えている「人間の弱さ」
自分の中にある認めたくない更紗の「事実」と、文の男性としての「劣等感」。
互いの傷に触れるでもなく、ただ寄り添い合う二人がとても愛おしい。

 

恋愛感情ではない「情愛」のような、兄妹のような不可思議な関係性だけれど、そういう男と女の関係があってもいい。そして、そんな人間同士が寄り添い支え合う事が許容され、それを見守る社会であって欲しい・・・と切に思った。

 

ラストシーンで、共に生きる事を選びながらも弱気な文に対し、更紗が明るく
「また流れていけばいい」と笑顔で言ったのが印象的だった。

 

そして・・・とても綺麗な映画だった♪

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