「不登校」~2~

不登校について前回は「個性を伸ばす」所までだったので、その続き・・・

 

 

そもそも「学校」という施設が、勉強を教え、協調性を育みながら、
生徒同志のコミュニケーションと先生を含む大人達との関わりを学ぶ場所である。
その為に「運動会」「遠足」「修学旅行」「文化祭」「バザー」「合唱コンクール」
といった行事が季節ごとに設けられているのです。

 

一つの学校だけでも数百人単位の児童がいて、クラス分けしても30数名。
その30人が同じなわけがない。

 

どんな子供にもその子供なりの「個性」があって、それを皆が理解して尊重する事が
本当の教育だと思うのでが、現実はそううまくいかないものです。
親でさえ、自分の子供の個性に悩まされどう対応していいか分からないのが現状です。

 

多少の例外はありますが、子供は生まれ持った「性質」に「成育環境」が合わさって
「個人」が形成されていきます。
「内気な子」「好奇心旺盛な子」「行動力のある子」など、様々な個性が一クラスに
集まります。
そんな生徒たち一人一人に目を配り「個性を伸ばす」など、教育以外の雑務をたくさん
抱えている先生にそれを望むのは酷というものでしょう。

 

先生というよりむしろ、生徒同志がその「個性」について理解し尊重するという
事の大切さを知る。
先生方の役目は、子供たちにそういう場を設けてあげる事ではないでしょうか?
受験の為の勉強だけに囚われがちな日本の教育に欠けているのは
「人間性の教育」だ、と個人的に思います。

 

子供のしつけは「親の役目」だとよく言われますが、それもある意味もっともだと
思う反面、それを親だけに押し付けるのも違うと思います。

 

小学生の頃の子供というのは、色んな意味で未熟ではあるけれど
「何も分からない子供」ではありません。
ちゃんと話せば理解できる聡明さを持っているのです。
「子供だから無理」「子供だから親がちゃんとやってあげないと」という視点は、
「子供だから何もできない」という決めつけでしかありません。

 

大人と子供の違いは「経験の差」だけだと、私は思います。
30歳と9歳の子供では21年の差があり、それが即ち「経験の差」になるのです。
子供が「未熟」なのは、その年数しか経験していない為であって、
「人間性」「個性」については大人と同じく尊重されるべき人間です。

 

大人はどうしても子供を自分の理想通りや世間に見合う人間にしたいと思って、
自分の価値観を押し付けがちになります。
それこそが子供の「個性」を奪っている事に他ならない。

 

「あなたの子供が絵を描くのが好きならば、存分に描かせてあげて欲しい」
「昆虫が好きなら、昆虫図鑑を買ってあげて欲しい」
「人より食べるのが遅くても叱らずに、その子のペースを理解してあげて欲しい」
親の目線で考えると、
「勉強や宿題は?」「そんなのが何の役に立つの・・・」「だって片付かない・・・」
という気持ちは物凄くよく分かります。
私がそういう親で、自分の息子を押さえつけてきましたから・・・

 

不登校から少し話が逸れてしまいましたが、不登校になってしまうお子さんの
理由の一つは「自分らしくいられない」という所にあります。

 

周りに合わせる事が「正しい」という空気の中では、未熟な子供は自分らしさを発揮できず
自分を見失っていきます。
それがとても苦しい事だと分かっていても「大人の言う事を聞かなければいけない・・・」
と思う子は、より一層自分を抑え込んでしまうのです。

 

子供は様々な個性を存分に発揮できるからこそ「子供」なのです。
大人になると失われてしまう感性を一番輝かせる時期が「子供」という児童期なのです。
子供は誰もが、無限の想像力と可能性が持って生まれてきます。
その可能性を最大限に伸ばしてあげられる場を提供するのが、大人の役目だと思います。

算数が苦手、国語が苦手、体育が出来ない、音楽で歌が上手く歌えない。
沢山の出来ない事の代わりに、出来るものを持っている子供たちを導いてあげられる
大人たちがもっともっと増えて欲しい。

 

誰もが皆同じではなくて、みんなが違って当たり前で何かが不得手であるという事を知れば、
もっともっと優しい子が増えて、学校という場所が居心地よくなると思う。
そして、子供たち自身がその事について考え発言し合える環境作りこそが、
今の学校に必要なのではないだろうか。

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